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第13代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー(John de Vere, 13th Earl of Oxford, 1442年9月8日 - 1513年5月10日)は、イングランドの軍人・貴族。薔薇戦争でのランカスター派の主要な指揮官の一人。 == 生涯 == エドワード4世の治下の初期である1462年、国王への陰謀を企てたとして、父である第12代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー(en)と兄が処刑されたが、エドワード4世はランカスター派との和解策を採っていたので、オックスフォード伯は父親の地所と称号を継承する事を許された。彼は1465年のエドワードの王妃エリザベス・ウッドヴィル戴冠の際にも、オックスフォード伯家の代々の仕事である式部長官(宮内庁長官)として、戴冠式を執り行なう事を許された。この頃にはマーガレット・ネヴィル(ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとアリス・モンターギュ(en)の娘でウォリック伯リチャード・ネヴィルの妹)と結婚した。 1468年、オックスフォード伯は国王に対する反逆の陰謀で捕えられた。彼はしばらくロンドン塔で過ごしたが、1469年の初めに釈放された。処刑を免れたのは、恐らく義兄であるウォリック伯の努力によるものだと思われる。オックスフォード伯はおそらく、1469年と1470年のウォリック伯の陰謀にも極秘裏に関与していた。後年、オックスフォード伯は追放されて、フランスのマーガレット・オブ・アンジューの宮廷に逃げた。与えられている「ランカスター派の指揮官」としての地位と、同じくウォリック伯の義弟として、オックスフォード伯はウォリック伯のランカスター派への寝返りを交渉した。寝返ったウォリック伯の活躍で1470年にヘンリー6世が復位すると、オックスフォード伯はイングランドに戻り、イングランド武官長に任命された。 オックスフォード伯はバーネットの戦い(1471年)でランカスター派の指揮官の1人であった。この敗北とウォリック伯の死の後に、今度はスコットランドを経て再びフランスに逃げた。フランス王ルイ11世の若干の支援を基にオックスフォード伯は、イングランド戦に対する海賊行為と、時折沿岸部の襲撃を行った。ここでオックスフォード伯は、その経歴上最も不可解な行動をとる。1473年、彼はコーンウォール沖の(''St Michael's Mount'')という岩だらけの小島を奪った。なぜこの島を占拠したのかその意図は不明だが、最も可能性が高いのは、エドワード4世を退位させて王弟クラレンス公ジョージを王位につけるためのイングランド侵攻作戦の何らかの足がかりであったと思われる。だが結局、孤立無援で侵攻作戦もできないまま半年近く抵抗した後、1474年の初めに降伏している。オックスフォード伯はカレーの近くのハンメス要塞(''the fortress of Hammes'')の中に収監された。 3年後、オックスフォード伯はハンメス要塞の城壁の上から深い堀に飛び降りた。脱走を試みたのか、それとも自殺を試みたのかは分かっていないが、そのどちらも成功しなかった。結局彼は、ハマス要塞司令官ジェームズ・ブラウント卿(en)を説得してヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)に寝返らせる1484年まで収監されていた。オックスフォード伯脱出の知らせを聞いたヘンリー・テューダーは、「信じられない喜びに狂喜した」という。 1485年のボズワースの戦いでは、名目上の指揮官はヘンリー・テューダーだったが、事実上は最も経験豊富なランカスター派の貴族として、オックスフォード伯が戦闘指揮を執った。オックスフォード伯は中央軍を指揮し、戦闘の序盤ではヨーク派のノーフォーク公の軍が下り坂を突撃してくるのを防いだ。 この戦勝の後、オックスフォード伯は彼の所領と称号に復し、さらに海軍司令長官とロンドン塔の管理者にも任命された。だが、戦いの日々は終わらなかった。ヘンリー7世の治世の初期に、ヨーク派の後継を自称する人間が2人もイングランドを荒らしたからである。オックスフォード伯はストーク・フィールドの戦いで前衛(実際に戦わなければならなかった国王軍の唯一の部隊)を指揮し、ブラックヒース(''Blackheath'')の戦いでは最高司令官であった。 1514年、70歳で死去。甥で同名のジョンが第14代オックスフォード伯を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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